事務の積み重ねが教育の時間を削る
学校経営の課題を一つ挙げるなら、教職員の時間の配分です。授業準備、学生や保護者への連絡、会議資料、行事の告知、各種の照会対応。どれも欠かせませんが、積み重なると授業や学生支援の時間を少しずつ削っていきます。人員に余裕のない私立学校や地方の小規模大学ほど、この問題は経営に直結します。
生成AIはこうした事務負担を軽くする手段として期待されています。ただ、ライセンスを配ることと、教職員の時間を教育へ振り向けることの間には、いくつもの設計が必要です。本稿では公表された二つの大学の事例を読み、小規模な学校法人や間接業務に悩む中小企業が何を判断すべきかを考えます。
室蘭工業大学――有志の試行から全事務部門へ
北海道の国立大学である室蘭工業大学は、2022年に「デジタルキャンパス推進基本方針」を定め、同年にはMicrosoft 365 A3を導入していました。マイクロソフトが2025年12月に公開した導入事例によると、同大学は2024年7月、過去のDX施策に積極的だった各部署の職員にMicrosoft 365 Copilotのライセンスを付与して試行を始めました。その後、事務部門全体へのライセンス拡大を決め、2025年5月に本格導入しています。予算とセキュリティへの懸念は、意思決定者との密な対話で乗り越えたといいます。
注目したいのは、試行で見えた課題への対応です。参加者アンケートでは、想定以上に多くの職員がAIの利用に心理的な抵抗を感じており、期待した出力が得られずに使うのをやめた人もいました。推進室は、ネット検索に慣れた人ほど、常に正確な答えを返すとは限らない生成AIの性質に戸惑うと分析し、大学のマスコットを使った漫画作りの研修や、Microsoft LoopとTeamsを使った活用例の共有を進めました。部署ごとの利用度の差を埋めるため、各部署と推進室をつなぐ「DX推進アンバサダー」制度も始めています。
成果として紹介されているのは、行事告知文の作成です。経験者でも20〜30分かかっていたウェブサイト向けの告知文が、職員が自作したCopilotエージェントを使うと、基本情報を入力するだけで数分で下書きできるようになったといいます。これは担当者の説明に基づく比較で、全学的な時間計測の結果ではありません。事例の公開時点でライセンスは職員に限られ、教員と学生にはCopilot Chatを提供しています。同大学は、教員が事務に多くの労力を割き、研究や教育の時間が圧迫されていることを課題に挙げています。
https://www.microsoft.com/en/customers/story/25842-muroran-institute-of-technology-microsoft-copilot
香港大学――問い合わせが教員に届く前に答える
香港大学は規模がまったく異なります。マイクロソフトの事例では、学部生1万8,491人、大学院生2万675人、教員9,288人、事務職員4,427人という数字が示されています。新学期の新入生対応では必要な情報が複数の場に散らばり、教員は増え続ける事務と学生への迅速な対応の両方を求められていました。
同大学は2024年1月、教員向けにMicrosoft 365 Copilotを導入し、同年8月にはCopilot Studioで新入生向けのチャットボット「First-Year UG Copilot」を構築しました。履修選択、主専攻・副専攻の要件、奨学金などの質問に即座に答え、教員の負担を和らげることを狙っています。事例に掲載されているのは大学側の説明と学生の感想で、問い合わせの削減件数や節約時間は公表されていません。
https://www.microsoft.com/en/customers/story/21598-the-university-of-hong-kong-microsoft-365-copilot
二つの事例は向きが異なります。室蘭工業大学は職員一人ひとりの文書作成を速くし、香港大学は教員へ届く前の問い合わせを減らそうとしています。前者は個人の生産性を、後者は業務の流れそのものを変える施策です。
浮いた時間は、配分を決めて初めて教育へ戻る
見落とされやすいのは、削減された時間の行き先です。仮に告知文1件の作成が25分から5分になっても、その20分は別の雑務に吸収されがちです。投資判断では、削減時間を人件費に換算した「見込み効果」と、実際に授業準備や学生面談へ振り向けた「実現効果」を分けて管理すべきです。
1人あたりのライセンス費用を月4,500円、教職員の時間単価を3,000円と仮定すると、1人が月に1.5時間を節約すれば費用と釣り合います(4,500÷3,000=1.5)。問うべきは損益分岐点を超えるか否かより、その1.5時間を誰が何に使ったかを確かめられるかです。
学校法人には会計上の論点もあります。学校法人会計では経費を教育研究経費と管理経費に区分するため、全教職員向けのライセンス費用をどの基準で按分するかを、経理規程に沿ってあらかじめ決めておくべきです。導入効果を「教育研究への時間の振り替え」として理事会に説明するなら、その実態を示す記録も欠かせません。
学生や保護者に届く文章には、承認と参照元の管理が要る
統制面では、二つの事例から別々の論点が見えてきます。
一つ目は、公式な文章の承認です。大学の告知文は組織としての意思表示であり、AIが作るのは下書きにとどまります。最終版を確認する担当者と承認者を決め、どの版を誰が公開したかを記録に残す。手順自体は従来の稟議と同じですが、下書きが数分でできるようになると、確認を省きたくなる圧力が強まります。
二つ目は、チャットボットが参照する文書の管理です。履修要件や奨学金の条件について誤った回答をすれば、学生の進路に影響します。回答の正確さは、AIの性能以上に、参照する規程や案内文が最新かどうかに左右されます。規程を改定したとき、誰が参照文書を差し替え、誰がそれを確認するのか。これは基幹システムのマスタ変更管理と同じ構造の問題で、担当部署と更新手順を明文化しておく必要があります。
小中学校・高校では、文部科学省が2024年12月26日に「生成AIの利活用に関するガイドライン(Ver.2.0)」を公表しています。児童生徒の情報を扱う学校では、大学の事例をそのまま持ち込まず、このガイドラインを踏まえて利用範囲を整理するのが前提です。
https://www.mext.go.jp/zyoukatsu/ai/
小さな組織ほど、進める順序が成果を左右する
室蘭工業大学は自らを小規模な大学と位置づけ、認定パートナーの支援を受けながら、有志の試行、研修、事例共有、全体展開、部署間の橋渡しという順序で進めました。教職員数十人規模の学校法人や中小企業が応用するなら、対象業務を一つに絞り、現状の件数と1件あたりの所要時間を記録してから始めるのが現実的です。告知文や会議の要約のように、入力する情報の機微度が低い業務から始め、個人情報を含む業務は利用範囲と保存先を決めてから広げます。
すでに個人の判断で生成AIを使い始めている組織では、利用実態の把握が先になります。ケンタッキー大学は2024年までに広がった学内のAI活動を棚卸しし、150件を超える個別の取り組みを把握したうえで、研究・教育・医療・事務・学生の五つの分科会からなる統治の枠組みを設けました。規模は違っても、誰が何に使っているかを知らずに全体方針は決められません。
https://www.microsoft.com/en/customers/story/26551-university-of-kentucky-microsoft-365-copilot
そして、浮いた時間の使い道を先に決めておくことです。授業準備なのか、学生や保護者との面談なのか、企業であれば営業や品質改善なのか。生成AIの投資効果は、ツールの性能より、経営が時間の再配分を決断するかどうかで決まります。
