退職で失われるのは、図面よりも判断の経緯です
製造業の技術継承を考えるとき、多くの経営者がまず思い浮かべるのは図面やCADデータの保管でしょう。ところが、図面そのものは比較的よく残っています。失われやすいのは、その寸法や材質に決めた理由、過去にどの工程でどんな不良が出て、どう設計を改めたかという経緯です。こうした判断は熟練者の記憶や個人のフォルダにあり、退職や異動とともに組織から消えていきます。
その結果、似た部品があるのに新しい図面を起こし、かつて解決したはずの不良を別の品番で繰り返すという損失が生まれます。どちらも決算書には技術継承の失敗という科目では現れず、材料費や加工費、手直しの工数、納期遅延の中に分散して埋もれます。経営課題として扱いにくいのはそのためです。
本稿では、図面と品質情報の検索・紐付けにAIを使い始めた国内製造業の公表事例を読み、その仕組みが熟練者の判断をどこまで組織に残せるのか、中小製造業は何を整えるべきかを、財務と内部統制の観点から考えます。
住友理工、YKK、デンソーの公表事例
住友理工株式会社は2023年11月、キャディ株式会社の図面データ活用クラウド「CADDi Drawer」の導入を公表しました。導入したのは、自動車用防振ゴムの先行開発から量産立ち上げまでを担う防振技術統括部です。発表によれば、製造過程の不良や損失を未然に防ぐ設計プロセスで過去の知見を効果的に活用できず、手戻りが多発していました。その知見は主にベテランに依存していたといいます。同社は数十万枚以上の過去図面と品質関連データをデジタル化して紐付け、製品図面にリスクと対策を反映させることを目指すとしています。導入決定時の発表であり、効果の数値は示されていません。
発表資料:https://caddi.com/ja-jp/news/press/20231129/
YKK株式会社の機械製造部の事例は、運用段階の様子をより具体的に伝えています。同部では、過去の類似設計を探せずに新設計を繰り返して品番数が増え、熟練者の勘やコツに頼る属人化が常態化していました。生産技術室は60代と20代に二極化し、中堅層がいない状態だったとも説明されています。導入後、担当者は設計情報を起点に過去の不具合事例を数日で紐付けたこと、不具合の原因分析や協力会社への指導実績を取り込んだことを挙げています。新入社員には、まずCADDiで確認し、それでもわからなければベテランに聞くよう指導しているそうです。数万件の図面を目視で確認するのは不可能だったが、今は1〜2日でデータを抽出できるという発言もあります。一方、取り組みは機械製造部内にとどまり、設計部門を巻き込むことが次の課題とされています。
導入事例:https://caddi.com/ja-jp/case-studies/ykk/
株式会社デンソーのエアコン機器の製造部門は、さらに踏み込んだ使い方を検証しています。過去に蓄積された文書から知見を抽出し、工程FMEA(工程で起こりうる故障の形態と影響を洗い出す分析手法)を自動化する取り組みです。担当者は精度が期待を上回ったと述べていますが、段階は実用化検証で、効果の確認は来年度中、2027年度末を一つの区切りとする計画です。注目したいのは、既存のナレッジをデータ化しようとして「なぜその結果になったのかという経緯が残っていない」という現実に直面したと、担当者が率直に語っている点です。
導入事例:https://caddi.com/ja-jp/case-studies/denso/
三社の内容はいずれも提供者であるキャディの公開資料にもとづき、担当者の発言を含むものの、測定方法や費用は公表されていません。数値は各社の特定部門・特定条件のものとして読む必要があります。
類似図面の検索から、判断の参照へ
キャディの発表資料によれば、同サービスは図面に記載された寸法、記号、文字を自動で読み取って構造化し、二次元図面に描かれた形状の特徴から三次元での類似性を判定して、似た図面を探し出します。品番やキーワードを覚えていなくても、形状から過去の図面にたどり着けることが要点です。YKKでは、以前の他社システムは検索に30秒以上かかって現場に疑いの目があったところ、動作の速さが定着を後押ししたと説明されています。使われなければ記録は参照されないため、操作の負担も選定の論点になります。
もっとも、熟練者の判断を残すという目的に照らすと、類似図面が見つかることは入口にすぎません。図面に不具合報告や設計変更の記録、工程条件が紐付いていて初めて、この形状でかつて何が起き、どう対処したかを参照できます。YKKが過去の不具合事例との紐付けを成果に挙げ、住友理工が品質関連データとの紐付けを導入目的に掲げているのは、この点を捉えたものと読めます。
裏返せば、紐付ける記録がなければAIは何も補えません。デンソーの気づきが示すとおり、結論だけが残って経緯が欠けた記録は、検索できても次の判断の根拠にはなりません。技術情報検索の成果は、ツールの性能と同じかそれ以上に、記録の残し方で決まると考えるべきでしょう。
また、AIが示すのは参照すべき候補です。過去の図面を流用するか、荷重や使用環境の違いを踏まえて設計し直すかを決めるのは設計責任者であり、その判断と承認の記録は従来どおり人が残す必要があります。検索が速くなっても妥当性の確認が省かれないよう、流用時の確認項目を設計審査に組み込んでおくべきです。
新しい図面一枚の費用をどう見積もるか
効果を測る科目を先に決めておくと、投資判断がぶれにくくなります。参考になるのが、コマツ産機株式会社と株式会社小松製作所金沢工場への導入を伝える2024年11月の発表で、コマツ産機の社長が示した見方です。新図を出図すると、図面のコストだけでなく、見積、工程設計、プログラミング、試し削りなどの手配や製造工程が初物扱いになり、品質・納期・コストのリスクや非効率を生むという指摘です。同社は年間2万枚以上の新図を作成していたとされ、試用後の調査で1人あたり月最大200分の業務削減効果が見込めるとしています。これは試用段階の見込み値です。
発表資料:https://caddi.com/ja-jp/news/press/20241114/
以下はSI Linkによる仮定の試算です。年間600枚の新図を出す中小の設備メーカーで、既存図面を流用できたはずのものが1割、60枚あったとします。新図1枚あたりの作図、工程設計、NCプログラム作成、初回加工の確認に計10時間かかり、社内の時間単価を5,000円とすると、1枚5万円、60枚で年300万円です。さらに、過去に対策済みの不良が年2件再発し、手直し、再検査、特急輸送で1件100万円かかったとすれば200万円が加わり、合計で年500万円規模の損失という仮説が立ちます。
肝心なのは、この仮説を導入前に自社の実績で確かめられるかどうかです。新図の発行数は把握できても、そのうち流用できたはずの割合を記録している会社は多くありません。不良の手直し費用も製造間接費や通常の加工費に混ざり、原因別には集計されていないのが一般的です。不具合対応の工数と外部費用を品番別・原因別に集計する区分を原価計算に設け、導入前の数か月分を基準値として取っておくことが、効果測定の出発点になります。
なお、図面の電子化や品質データの紐付けにかかる初期費用を発生時の費用とするか資産とするかは、契約の内容と自社の会計方針によって判断が分かれます。予算化の段階で顧問の会計専門家と処理を確認しておけば、投資回収の見え方が年度ごとに揺れることを避けられます。
「なぜ」を書き残す責任と、版の管理
内部統制の観点で最も重要なのは、経緯を記録する責任を業務手続きに組み込むことです。設計変更の手続きでは、変更内容と承認者の記録は求めても、変更理由、検討して退けた案、根拠となった不具合報告の番号までは求めていない例が少なくありません。これらを承認書式の必須項目とし、承認者が記載を確かめてから承認する。この手順を加えるだけで、数年後に検索できる情報の質は大きく変わります。
もう一つは版の管理です。類似図面検索は形の似た図面を示しますが、それが現行版か廃止された旧版かは、元の管理情報が正しくなければ判別できません。改訂前の図面を流用すれば、過去に直したはずの不良を自ら呼び戻すことになります。図面の有効・廃止の区分と改訂履歴を整え、不具合と図番の紐付けを誰が登録・訂正できるかを定めて、変更の履歴を残すことが必要です。誤った紐付けを見つけた人が訂正を申請できる経路があれば、現場の信頼も保たれます。
YKKのように協力会社への指導実績を取り込む場合、取引先の技術情報が含まれることもあります。秘密保持契約で許された範囲と、閲覧できる部署の設定は、取り込む前に確認しておくべきでしょう。
中小製造業が始めるための判断条件
公表事例の企業は、YKKが従業員約5万7千人、デンソーが連結で約15万人という規模で、住友理工は数十万枚の図面を対象にしています。同じ効果をそのまま期待することはできませんが、ベテラン一人の退職が与える影響は小規模な会社ほど大きく、図面が数千枚規模でも検索の仕組みが効く余地はあります。
判断の条件は三つに整理できます。第一に、図面が電子化されているか、紙であれば読み取れる品質でスキャンできるか。第二に、不具合報告や設計変更の記録が、紙やExcelであっても図番で特定できる形で残っているか。第三に、熟練者が在籍しているうちに、主要な製品群について判断の経緯を聞き取り、記録として補う時間を確保できるか。三つ目は費用ではなく時間の問題で、退職後には取り返せません。
費用は各社とも公表していないため、複数の提供者から見積りを取り、自社の図面枚数と利用人数で比較することになります。全社展開から始めるより、不良の多い製品群を一つ選び、過去3年分の不具合報告と図面を紐付けて試すのが堅実です。評価の指標は検索時間だけでなく、新図のうち流用できた割合、対策済み不良の再発件数、新人が独力で解決できた技術的な問い合わせの比率など、熟練者の判断が組織に残ったかを示すものにします。
技術情報検索への投資は、ソフトウェアの購入であると同時に、記録の作法を改める組織としての決定です。ツールを選ぶ前に、自社の設計変更記録を数件取り出し、そこに「なぜ」が書かれているかを確かめてみてください。経緯が欠けているなら、最初に手を付けるべきは承認書式の見直しと、熟練者からの聞き取りです。
